映画『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき』の小林空雅さんと考える日本の「性教育」

映画『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき』7月24日からアップリンク渋谷で劇場公開が始まりました。

THEMEDIAでは、本作の主人公である小林空雅さんと高野慎太郎さん(自由学園教諭)との対談を企画。

第三弾の今回は、「性教育」をテーマにお話をしていただきました。

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小林空雅さん(以下、空雅):中学生の頃を振り返ると、「保健体育」の授業で男女の話が出てたことが印象に残ってますね。いまはどうなってるか分からないですけど、当時は「男女」の話しかなくて。「第二次性徴」とか「思春期」っていう話題のなかで、「身体の変化が始まる」とか、「異性が気になり始める」とか、そういうことが教科書に書かれているんですよね。でも、好きになるのは「異性」とは限らないし、誰に対しても恋愛感情を抱かないという人もいるので、ちょっとずつそういう新しい知識を授業に付け加えられる先生がいればいいなと思うんですよね。

高野慎太郎さん(以下、高野):日本の「保健体育」は周回遅れで、僕もだいぶ専門家とやり合いました。保健体育の教科書には、今でも「異性」という言葉が出てくるでしょう。恋愛とか性愛は「男女」が基本なんだっていう立場からなかなか離れないですね。だから、「保健体育」の教科書には「LGBT」という言葉は絶対に入れないんですね。「多様な性の在り方」とかいって逃げるわけだ。僕は幼少期から数えきれないほどのLGBTオープンの友人とつき合ってきましたけど、彼ら彼女らは「LGBT」という言葉にプライドを持っているんですね。権利獲得の象徴として。単なる呼び方の話じゃんと、別に自分は呼称にはこだわらないという立場もあるけども、それでも一方で、「俺はゲイだ」とは言えるけど、「俺は多様な性だ」とは言えないだろうという立場もあるわけですね。

空雅:なるほど。

高野:だから、同じことを伝えるのであれば、可能な限り「LGBT」という言葉を使ってほしいと願う当事者がいるわけです。もちろん、言葉を旗にするのはどうかと思います。人を束ねるための言葉みたいなものは、結局、外側にいる人々には響きませんから。ただ、「LGBT」については、当事者の希望もあるし、社会的にも認知されてきているんだから、そこは加速させればいいじゃんかと言って、まあ煙たがられてきたのですけども…(笑)。

空雅:まあ、過度に言葉にこだわる必要もないと思いますけどね。

高野:もちろんそうですね。「言葉狩り」みたいな頭でっかちは意味ないですよ。「文化は人を窒息させる」(デュビュッフェ)わけですから。

空雅:言葉一つとっても、教科書をつくる難しさがありますね。

高野:教科書は難しいです。そもそも、よくできた教科書を作れば、それでOKというわけでもないですしね。LGBTの法整備の問題も同じですけど、整備しただけでは「偏見」や「差別」の問題の解決を意味しないわけで、「言葉」も一緒ですよね。「差別言葉」をまったく使わないで、差別的な発言をすることだってできてしまうわけじゃないですか。だから、「教科書」とか「言葉」に対して、表面的な見方をしていてもだめなんだということが一点ですね。

空雅:うん。こだわりすぎるのは違いますよね。

高野:これちょっと話がわき道にそれますけど「神経学的多様性」という考え方があるんですね。neurological diversityというんですけど、「自閉症」とか「ディスレクシア」みたいに、ひとむかしであれば「障害」というレッテルが貼られてしまうような症状に対して、そうじゃないんだと。それらは、「神経学的な多様性」の1つなんだと肯定的に捉える発想なんですね。それで、例によって教育業界は流行り言葉が大好きですから、この言葉も流行っているわけですけども、それでも、そういう新しい言葉を習得した先生が、例えば、朝の朝礼に遅刻してくる教員に対して「仕事なんだからしっかりしなさい」とか言うわけでしょう。

空雅:ああ、神経学的な多様性を忘れちゃってる…。言葉を知っててもだめなんだ。

高野:そう。恐ろしいことですけど、単に「言葉」を知ったことで、そのことを理解したような気分になっちゃうんですね。ただ、逆に言えば、「神経学的多様性」なんて流行り言葉は1つも知らなくたって、その子どもを十分に尊重できる先生だっているわけじゃないですか。だから、「言葉」が全てじゃないというか、いつでも言葉っていうものは不十分な部分を残すんだと思います。残された不十分な部分は、その人の「構え」とか、行動とか、立ち居振る舞いによって示すしかないんじゃないかと思うわけです。だから、その人が「何を言っているか」よりも、「どんな人か」が大事ですよね。だけど一方で、これが難しいんですけど、新しい何かを理解しようとか、人格形成をするときに「まずは言葉から入りたい」っていう人が多いことも事実なんですよ。

空雅:だから教科書が重要になると。

高野:そうです。「言葉」とか、「概念」から理解に入りたいっていう人のために、やはり教科書の存在は重要なんでしょうね。禅問答みたいになってますけど(笑)。やはり、当事者の意見も聞いて、より多くの人が納得できるような教科書を作ればいいじゃないかと思いますけどね。

空雅:なるほど。そうなると、教科書をつくるときに、「保健体育」の世界は難しいっていうお話でしたけど、他にはどんな可能性があるんですか。

高野:やっぱり、この話題ってのは、単なる個人の内側(心)の問題だけじゃなくて、僕たちの社会の在り方に対して目を向ける機会になると思うんです。この話題を通して、「何が正しいか」を与えられるのではなくて、「何が正しいんだろう」っていう問いを持つきっかけになる。実際に、LGBTという観点をきっかけとして、例えば、学校の規則を変えたりとか、制服を見直したりする活動が始まってますよね。こうした活動が持っている教育的な意義っていうのは、「性教育」というよりもむしろ「市民的リテラシー教育」にあります。社会の在り方をよく考えて、「社会が悪ければ社会を変えよう」と発想する契機になります。僕が関わった社会科の教科書はそのあたりをふまえて作っていて、「人権」について学習するページの中に「LGBTと人権」という項目を入れて概念的な説明をしたうえで、いま話したみたいな校則を変えた中高生のような実践も書き込んでいます。空雅さんからは教科書には何か意見はありますか。

空雅:できればこれからは、「保健体育」の教科書には性別だけじゃなくて、例えばDVとか避妊とか、子どもたちが身近に遭遇する可能性がある事例について、もっと詳細に書いてく必要がありますよね。「日本は…」っていう主語はあまり使いたくないですけど、まあ、あえて使わせていただくと、日本ってすごく「性教育」って「よくないもの」とか「隠さなければならないもの」っていう感覚がまだ残ってますよね。そこで誤った知識を身につけて、間違いを起こしてしまう、ということがあると思う。

高野:そうですね。そもそも性の話ができなければ、情報の誤りを修正することすらできません。おそらく、日本の学校では教師と生徒との間に、性に関するバーバル・コミュニケーションがないですね。

空雅:これは、ちょっと話が遡っちゃいますけど、小学校の林間学校の時の事前学習みたいなときに、「女子生徒」と「男子生徒」に分けて学習会があったんですよね。あとで話を聞いたら、男子はただ普通の映画を見ていたらしいんですけど、女子の方では生理に関する話がありました。そこで、「月経の話」というものを、どうして女子だけに聞かせるんだろうって思って。

高野:なるほど。

空雅:身の回りにそういう状態の子がいたときに、これだけ辛い思いをしてるんだということを気遣ってあげられるためにも、そういう知識を性別関係なく知っておく必要があるんじゃないかなって。将来的に、相手を労ってあげられるためには、性別関係なく正しい知識を持っているということが大切だと思うので、そこは分けなくてもよかったんじゃないかと思うんです。

高野:海外だとそのあたりはインクルーシブだし、生々しい話を子どもたちに正確に理解してもらう工夫をしています。いま子どもたちは性に関する情報をインターネットから得ます。とくに、ポルノ動画ですね。ただ、ポルノ動画には様々なフィクションが描かれるわけで、だからまずは、子どもたちの幻想を解除する必要があるんですね。そこで、海外では、実際にポルノ俳優を教室に招いて、「きみたちが観ているのはファンタジーだ」って語ってもらったりとかね。「どうすれば子どもたちに受け取ってもらえるのか」ということをすごく考えてる。

空雅:日本と海外では、雰囲気がだいぶ違いますね。何がいちばん違うんでしょうね。

高野:根本的に、性に関する捉え方が異なってくると思うんです。欧米だと子どもってのは「授かるもの」ですよね。ステディがいて、同棲して事実婚のような関係にあるなかで、あるとき子どもを授かるわけです。そこで、「これは神様からのメッセージなんだな」っていうことで、結婚に至るわけですよね。統計を見ればわかりますけど、欧米における性愛は「妊娠→結婚」の順です。「授かるもの」だから。子どもを「授かる」っていう発想には深い含蓄があって、それは、どうしようもできないものへの感受性なんですよね。子どもの性格とか、顔とかは選べないわけで、もしかしたら障がいを持って生まれてくるかもしれないし、すべてを含めて不確定な世界なんですね。でも、本人たちはその不確定な領域に対して、巻き込まれながらも踏み出していくんですね。だから、この「授かる」ってのは「受動的なんだけど能動的」な感覚のことを言うんですよ。中動態っていうんですけど、「巻き込まれながら踏み出す感覚」が、じつは、「性」とか「愛」の本質なわけです。それで、「性教育」っていうのは、そういった「不確定なもの」「どうにもならないもの」を扱うわけですね。これはもう、「エンカウンター」まさに「出くわす」「出会いがしら」みたいな感覚があるわけです。ただ、こうした不条理なものを性教育というのは「理知的」に教えようとするわけで、基本的な矛盾をはらんでいるんです。こうした人間の根源的な理解をふまえない性教育は、単なる「お勉強」にすぎませんから面白くもないし、役にも立たない。

映画の上映スケジュールのご案内

映画の上映スケジュールを制作会社の広報の方よりご案内いただきました。

感染対策を行なった上で、足をお運びください。

▷上映情報 神奈川/川崎市アートセンターにて 

12/19(土)より上映開始

12/19(土)19:55の回 12/22(火)~12/26(土) 19:55の回

※12/22,23の上映後、監督常井美幸の舞台挨拶あり

対談者プロフィール

小林 空雅
Takamasa Kobayashi
13歳のときに心は男性、生物学的には女性である「」と診断される。
17歳のときに出場した弁論大会では、700人もの観客を前に、男性として生きていくことを宣言。
そして弱冠20歳で性別適合手術を受け、戸籍も男性に変えた。ドキュメンタリー映画「ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき 空と木の実の9年間」主人公
高野 慎太郎
Shintaro Takano
1991年、埼玉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院修了。現在、学校法人自由学園教員(国語科)。埼玉県川越市社会福祉審議会委員、東京都東久留米市図書館協議会委員を兼任。過去に、埼玉県地域保健医療・地域医療構想協議会委員、埼玉県歴史と民俗の博物館協議会委員・博物館評価委員会委員、早稲田大学高等学院助手(情報科)などを歴任。

著者プロフィール

THEMEDIA 編集部

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