教育と主体性をめぐって 書評特集特別編 「教育学研究特講Ⅱ」の思い出

書評特集の特別編「教育学研究特講Ⅱの思い出」です。中央大学大学院の授業にゲスト出演した際の質疑応答を掲載します。後半は、「教育のジレンマ」をめぐる質疑応答から抜粋して掲載します。

教育と主体性をめぐって

(2020年6月)

・活動理論の第三世代モデルにおいて、「主体」は「道具」や「コミュニティ」との関係のなかに位置付きます。「主体」と「コミュニティ」の関係を「ルール」が規定し、「コミュニティ」と「対象」の関係を「分業」が規定し…というかたちで、活動は構造的に決定されます。

・ここでは、「主体」(による判断・決断)よりも、「コミュニティ」(社会的基盤)や「人工物」(=[道具]=tool= Artifact)といった外部環境によって「活動」が規定される、という印象を受けます。

・こうした枠組みは「下部構造」(マルクス)、「無意識」(フロイト)、「共同体感覚」(アドラー)などを想起させます。いずれも、主体にさしたる優越性を認めない思考伝統です。

・近年ではObject Oriented Ontology(オブジェクト指向存在論)という哲学に顕著です。オブジェクト指向存在論は、「人間主体」が優位で、そのほかのモノが劣位にあるとの見方を否定しています。

・スクリーン、橋、ナイフ、鉄道のプラットホーム、メロン、シャベル、凍った湖、星など、人間を含むすべてのモノが「オブジェクト」であって、人は無数のオブジェクトの影響を受けて活動する、関数f(x)のような存在に過ぎないとします。

・オブジェクト指向存在論の代表的な論者であるグレアム・ハーマンの主著は“Tool-Being:Heidegger and Metaphysics of Objects”(1999年)で、人間は多様な”Tool-Being”(道具的存在)のバリエーションの1つにすぎないというわけです。

・遡って、80年代に台頭したアクターネットワーク理論(Actor-network theory(by Bruno Latour))も同様です。無数のアクターの網の目のなかに放り込まれて、人間はあたかも「主体」であるかのように振る舞っているに過ぎないという見方です。

・同時期に、フランス現代思想の領域では、ドゥルーズ&ガタリがリゾーム(Rhizome)概念を出しています。ツリー構造(「幹」から枝分かれ的に関係を構築する)を否定して、網状組織の如く無限連鎖する関係性をリゾームと呼びました。

・リゾーム論を教育界に取り込んだのが“Rhizomatic learning”論です。“the community is the curriculum”の言葉通り、アクターネットワークの網の目こそが教育だとします。

・先述のドゥルーズ&ガタリは1972年『アンチ・オイディプス』にて “desiring machines”(「欲望機械」)という概念を示しています。ここで、人間は欲望によって動かされる機械に模されます。これも、人間の「主体性」に見切りをつける発想です。

・「脱主体」の哲学を簡単に遡りましたが、始祖はハイデガーの「技術論」にあるとぼくは捉えています。オブジェクト指向存在論のハーマンの主著のタイトルにもハイデガーが登場していました。

・『技術への問い』(新訳版は『技術とはなんだろうか』)において、ハイデガーは、人間は技術によって駆り立てられる存在に過ぎないと喝破します。人が技術を使うのではなく、技術によって人が駆り立てられるのが近代社会であって、そうした社会の有様を「総駆り立て体制」と呼びました。

・無意識・下部構造・共同体感覚・オブジェクト・アクターネットワーク・欲望・駆り立てと言葉こそ異なりますが、「人間の主体性を当てにできない」とする発想は同型です。

書籍情報

『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症(上・下)』

ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ(宇野邦一訳)

河出書房新社,2006.

 

“Tool-Being: Heidegger and the Metaphysics of Objects”

Graham Harman,

Open Court,2002

 

『技術とは何だろうか』

マルティン・ハイデガー(森一郎編訳)

講談社,2019.

プロフィール

高野 慎太郎

1991年、埼玉県生まれ。早稲田大学大学院教職研究科修了。早稲田大学高等学院助手を経て、中国・安徽大学外語学院客員講師、自由学園女子部中等科・高等科教諭。